両国




 明暦の大火(1657)では非常に多くの焼死者と溺死者が出た。それは、当時隅田川には橋がなく、浅草の下町で火に追われた人々が飛び込んで溺れ死んだからである。これを繰り返さないようにと、幕府は万治3年(1660)に長さ96間(175m)、巾4間(7m)の橋を隅田川に架け、さらに、東西の橋詰めには火除けのための広場である広小路を作った。

 初めの橋の名前は大橋と称したが、昔の武蔵国と下総国の両国へまたがった橋であるので両国橋と呼ぶようになった。橋が架けられたことによって、本所と深川の地域が開発され、橋の利用者も増加して行った。それにともない東西の広小路はどちらも色々な人々でひしめき合う、江戸有数の盛り場に発展した。広場の川岸に沿っては料理屋や待合が建ち並び、広場では、さまざま商売が朝、昼、晩と時間によって様相を変えて行われた。午前中は、青物市場となり、粗莚(あらむしろ)を一面に敷き詰めた上に近在の野菜ものが拡げられて売られた。荒むしろが取り払われ、菰(こも)張りの粗末な小屋が幾つも設けられて、芝居、講釈、軽業、手品、覗きからくり、などの見世物興業場と化した。また、長命丸、素麺、化粧品、浮絵、硝子細工、鉢植、などが売られる一方で、西瓜の立売、虫売り、冷水売り、蒲焼きの辻売りも立っていた。

 夕方が近づき、並び茶屋の軒行燈に火が点る頃となると、芝居や見世物はバタバタと木戸を閉め、大道商人も大急ぎで店をたたんで帰っていった。入れ違いに麦湯や甘酒の屋台が床几を並べて出た。

 隅田川の呼び名は場所によって変わっていた。浅草近くでは浅草川とか宮戸川となり、それより下流では大川となり、普通大川端というのは、両国橋から霊厳島辺りまでの隅田川の右岸をいった。両国橋の東から大川端一帯を望んでいる。西広小路の先に薬研堀に架かった元柳橋も見えている。

 火事の多かった江戸市内では、花火をもて遊ぶことは禁じられていた。しかし、大川ではこれが許されていたので、夏暑い夕方になると、人々は『みつまた』辺りまで舟を出し、納涼がてらに手花火を楽しんでいた。

 隅田川では打上花火が大々的に打ち揚げられるようになったのは、両国の川開きが実施されるようになってからである。

 6代将軍吉宗の時、全国的な大飢饉があり、また、コレラも大流行して百万人以上の死者を出した。そこで、幕府は死者の慰霊と悪病払いをかね、享保17年(1732)に両国橋付近で水神祭を催した。その翌年、前年の水神祭と川施餓鬼会(かわせがきえ)にちなんで、5月28日に川開きを行い花火を打ち揚げた。

 これが、両国花火の始まりである。『川開き』とは、この日から隅田川に舟を浮かべて納涼
することが許されることであり、8月26日まで続いた。

 川開きの花火は、江戸の船宿(8割)と両国近辺の茶屋、料理屋(2割)が金を出し合って打ち揚げた。当然これらの店は花火見物の客で賑っていた。ここへ来た客も金さえ出せば、花火を打ち揚げてくれたという。

 花火を打ち揚げる仕事は、浅草横山町の鍵屋弥兵衛と、両国広小路の玉屋市兵衛が請負った。両国橋を挟んで、上流を玉屋が、下流を鍵屋が担当した。両者が花火を船上から打ち揚げる度に、観衆は『玉屋〜〜〜』とか『鍵屋〜〜〜』と叫んで喜んだ。

 後に、玉屋は火事を出して家の周辺を焼いたので、罰として居住地を追われ営業を停止した。以後は鍵屋のみが栄えて花火を打ち揚げたが、「玉や〜〜〜」、「鍵屋〜〜〜」の掛声は残ったと言う。

 花火の日には、あちこちから屋形舟、屋根舟、猪牙舟など、ありとあらゆる舟が橋の下へ集まってきて、川の水が隠れてしまうほどであった。舟と舟との間を酒、小料理、即席天ぷら、鮨、枝豆、西瓜(切ったもの)、梨子(なし=皮を向いたもの)、真桑瓜(まくわうり)などを売る舟がウロウロ漕ぎまわり、また、新内や義太夫等の芸能人が古い屋形舟を借りてきて、音曲を奏でながら『流し』て行った。勿論、両国橋の上や、隅田川の両岸は花火を見ようとして集まった人々で埋まった。

 隅田川は日本橋浜町の辺りから大きく右へ旋回している。そのため、この辺りに川が運んできた土が蓄積されて州ができ、中州と呼ばれていた。隅田川の流れがこの州で2つに分流していて、本流と合わせると流れが3筋に見えたので、三ツ又という名称が生まれた。

 明和8年(1771)に、中州の西の水路は、本所舟御蔵から土を運んできて埋められてしまった。そして、中州と称する繁華街ができて非常に繁昌した。しかし、隅田川の上流で洪水が頻発するようになったので、寛政元年(1789)に、再びその土地を掘り起こして水路を復旧させた。

 中州の南部は、既に、享保年間(1716〜1736)と宝暦年間(1751〜1764)に御堀の揚げ土を運んで来て築地がなされており、箱崎といっていた。そのため、これ以後、島全体を箱崎と呼び、新しい水路を箱崎川と呼ぶようになった。箱崎は江戸の交通の幹線水路であった隅田川の河口近くに位置していて、江戸城防衛上重要であったので、それ以後、この島の北端には町屋を造ることが許されず、大名屋敷のみ建てられた。また、この島の辺りの隅田川を、わかれの淵ともいった。そにわけは、江戸湾から流入してくる塩水と、隅田川の淡水とがお互いに別れるところと考えられていたからである。箱崎の南には隅田川の右岸に沿って霊厳島と江戸湊が続いていた。いわゆる、関西方面から下ってくる物資(下り物)は、桧垣廻船や樽廻船で運ばれてきてこの江戸湊で一旦下ろされ、艀(はしけ)のような小さな船に積み替えられて、隅田川や江戸市中に張り廻らされた掘割を通って、最終消費地の河岸まで運ばれた。この絵の手前に艀風の舟が2艘描かれている。この辺りはこうした舟の往来で激しかった所である。三ツ又は、また、納涼と月見で有名な場所であった。江戸っ子達は隅田川で舟遊びを楽しみながらこの辺りまで来て、暑さを凌いだり、月見を楽しんだりした。

  

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