向島




 中央を流れている水路は、昔、向島や本所地区へ水を供給するために掘削された亀有用水である。後に、上水の機能を停止してからは、水路の両側にあった田圃の灌漑用に使用されるようになり、名前も四つ木通水と改名した。この水路は水上交通路としても利用されていて、上流における曳舟の有様は、『四つ木通用水引ふね』に示されている。

 この用水は左の方へ流れ、小梅村の南で源森川と北十間川に接続していた。小梅村における用水の堤防が小梅堤と呼ばれていた。

 小梅村は西は隅田川に臨み、東は秋葉権現社のある請地村と接していた。隅田川の堤防近くに三囲稲荷社があり、同社の縁起を引いて、小梅村があり、小梅村の由来につき、墨田区史は、このような説明文を載せている『この社の創建は弘法大師によるといわれ、大師自ら稲荷の神体を彫刻した時、酒水器の中に一粒の梅を得たが、その梅が牛島の地に生じたので土地の名前を梅ケ原と称するようになったと伝えられている』と。この文中の牛島とは、中之郷、小梅、須崎、押上の4ヵ村を指し、小梅村が昔は、『梅ケ原』と称されたものと考えられている。

 小梅というのは葉が小さく、早春に白色・単弁の花を開いた。その果実は球状で小さかったが、食用に適していて梅干に漬けられたという。小梅村とは小梅の木が多くあったことからつけられた名前であろう。その梅ノ木があった土地の広さが8段(8u)あったので、この地を『八段梅』ともいった。後に、この名前は「八段目」に変わった。

 橋が3つ描かれている。手前の橋を「八反橋」といったのは、八段梅から付けられたことが分る。この橋の上を羽織で身を包んだ女性が2人渡っている。何となく初冬の冷たさを感じさせる風景である。この頃は又、飼い犬の子が多く生まれた時期でもあった。生後間もない子犬であろうか、手前の堤防の上で子供達がもて遊んでいるのが見られる。対岸の堤防の道は、その先が北の方で水戸街道に通じていたので水戸街道の脇街道ともいわれてた。

 隅田川は浅草を過ぎて北上すると、左へ大きく旋回している。その手前の西岸に真崎がある。ここの石浜神社の境内にあった真崎稲荷からこの地名が生まれたという。ここから対岸の向島へは『真崎の渡し』、別名『橋場の渡し』を渡った。

 対岸の渡し場の北に小さな森があり、その中に水神社が建っていたので、向島から見てこの渡しを『水神の渡し』ともいった。

 遠い昔、この辺りは江戸湾の入江で、その入江へ隅田川は注いでいた。ある時水神が一匹の亀に乗ってこの入江に現れ、この地の岡に上陸して鎮座したという。そのため人々はこの岡を水神の岡と呼んでいた。

 この岡は隅田川がどんな洪水になっても、水に浸らず浮かんでいるように見えたので、人々は浮島とも呼んでいた。ここに建てられたのが水神の宮で水難、火難除の神として船頭衆ばかりでなく庶民の間にも信仰が厚かった。

 水神の森の辺りは、むかし、奥州街道の駅舎として栄えていたところで、人家稠密にして隅田千軒宿といわれていた。しかし、慶長年間(1596〜1615)に向島や本所を水害から守る目的で、隅田川に沿って大堤が改築され、それ以後ここにあった千軒の人家がすべて堤の内側に移転したので、この辺りはスッカリ寂れてしまったという。

 8代将軍吉宗は享保2年(1717)にこの大堤に、北は徳川家の御殿のあった場所から、南は寺島村の渡し場辺りまで桜を植えさせた。それ以後も何度か桜の木が補充され、ここは「隅田川の桜」といわれる江戸有数の桜の名所となった。

 さらに、八重桜も植えられていた。記録によると文化年間(1804〜1818)に近くにあった百花園の創業者の佐原鞠鵜が、八重桜150本を水神社の南にある白鬚神社の南北に植えたといわれている。

  

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