深川




 江戸の材木商は、初めは江戸城に近い道三堀や八代州など舟付きの便利な河岸付近に店を構えていた。しかし、これらの土地が武家地と決まってからは、日本橋川沿いの河岸に移った。さらに、その後寛永18年(1641)や明暦3年(1657)の大火の時に、置いてあった材木や薪炭が火事を一層激しくし、その上復旧に必要な材木をも焼いてしまうという始末であった。

 そこで、幕府は材木置場を市中より離れた場所に移させることとし、隅田川を渡った対岸の深川佐賀町、永代町、福住町辺りに移転するように命じた。

 さらに、元禄11年(1698)、ここが幕府用地として取上げられると、小奈木川畔の猿江に移り、そこも幕府の材木置場に指定されて、再び立ち退かざるを得なくなった。そこで、材木問屋の15名は、ここより南方の海岸近くの埋立地で、残っていた土地を幕府から買い受けて元禄14年(1701)に移転した。

 当初から、この土地は塩気を含んでいて作物が出来ない凹んだ土地であったが、問屋達は九万余坪(300,000u)を埋め立て、四方に土手を築き、縦横6条の堀割を造り、掘割10箇所で橋を架けて自分達の町屋を作った。木材は主として掘割の水の中に浮かばせて貯木した。

 ところが、江戸湾が満潮となると、この掘割まで差しこんできた海水が材木にしみ、かえって防虫の役目を果たす結果となった。

 この地に落ち着いた材木問屋達は、元禄16年(1703)に、ここの木材置場を『木場』と命名したいと幕府に願い出て許されたので、以後ここを木場と称するようになった。

 『火事と喧嘩は江戸の華』といわれたように、木造家屋の密集地であった江戸では火事が頻繁に起こった。そして、火災の後には必ず家屋普請のための材木が必要となった。この事実がその後の木場の繁栄をもたらしたのである。

 木場一帯は水郷的景観を持っていた。堀割の水は凍るほどでもなく、木材の上に乗って(角乗り)木材の貯木場所を変えている。

  

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