上野




 上野の名前は永禄2年(1559)に作成された『小田原北条家分限帳』に載っているので、江戸幕府が出来る以前にあったことになる。山野麓の低地部分を下谷といったので、山の方が上野となった。江戸時代の初めに、伊賀上野の城主『藤堂和泉守』がここに屋敷を構えた時、出身地の伊賀上野と名前も地勢も似ていたことから、この山の建物や坂に、清水、黒門、車坂など出身地と同じ名前をつけた。

 元和年間(1615〜1624)になって幕府は藤堂家を染井へ移転させ、この地に京都の比叡山延暦寺を真似た東叡山寛永寺を建立させた。完成したのは寛永4年(1627)で、根本中堂、東照宮、清水堂、山王社、仁王門、鐘撞堂、などの社寺が建ち並ぶ大伽藍となった。そして広さと壮観さにかけては江戸第一であった。

 上野の山の南麓にあった不忍池は、大昔、武蔵野に食い込んでいた江戸湾の名残であって、原野の中に水面を輝かせてハッキリ見えたので不忍の名が付いたという。そして上野の山の方の別名が『忍ガ岡』となった。

 寛永寺の開基であった天海曽正はこの池を琵琶湖に見立てて、竹生島に準ずる小さな島(中島)を築き、ここに弁天祠を建立して中島弁財天を祀った。この島は後に池畔と結ぶ橋が架けられ陸続きとなった。

 不忍池は、蓮見、花見、納涼、月見、雪見によい所として、四季を通じ人々で賑った。特に、紅白咲き乱れる蓮の花は江戸随一を誇っていた。島には料理屋や水茶屋(お茶を出す店)が建っていて、そこで出される蓮飯は特に評判が高かった。

 清水堂から不忍池を見下ろすと、手前の道の傍らに『月のまつ』と称する奇形の枝のある松が見えた。松の枝の1本が、蔓のように成長して丸い輪を作り、円い月のように見えたので、『月のまつ』といわれていた。

 月の松を前景に配して眼鏡の役割を果たさせ、不忍池と対岸の池の端の町屋や本郷台地に建ち並ぶ大名屋敷を覗かせている。本郷は冬になると北風に煽らされて火事がよく起った所で、各大名屋敷は火の見櫓を立てて火事に備えていた。

上野の山

 あっと驚く荘厳な建物が登場します。それが「国際子ども図書館」です。前身は「帝国図書館(旧国会図書館支部上野図書館)」で、明治38年(1906年)竣工の建物。当初は「ロ」の形になるように構想されたそうですが、結局、完成したのは4分の1の側廊部分だけ。正面玄関もない中途半端な建物のまま、長い間使われてきたそうです。そこに登場したのが安藤忠雄氏。コンクリート内放しで有名な建築家は、ガラスとサッシをふんだんに使用し、歴史的建造物の雰囲気を壊すことなく、見事な近未来的な建物に再生しました。あまりにも見事な再生ぶりだった。以前の建物が
東宝特撮映画の代表作『ガズ人間第1号』(1960年・本多猪四郎・円谷英二)には、再生前の建物が登場。ガス人間と呼ばれる土屋嘉男(図書館員)が、銀行強盗を働いたあと、その金の受け渡し場所に使ったのがこの図書館です。ちょっと前までは、「不忍口」から出て交差点を渡り、聚楽ビルに沿った坂道を上がっていったところが上野公園という道程だったのに、今では「公園口」の改札を出れば目の前が「東京文化会館」という按配。便利になったもんです。

 「国際子ども図書館」の周囲には荘厳な建物が多いので、被写体には苦労しません。でも、何気なくとおり過ぎてしまうと、見逃してしまう建物もあるので要注意。その筆頭が「京成電鉄博物館動物園駅」で、遠くから見るとミニ国会議事堂のような感じなんですが、近くにくると石造りの何の変哲もない建物に見えてしまうから見逃しがち。でも、ピラミッド型の階段屋根といい、入り口付近の円柱など見事なデザインです。京成線上野駅の1つ先(前)の駅として昭和6年(1931年)竣工。でも、ホームの長さが短いことや設備の老朽化にともない、残念ながら現在では閉鎖中の駅となってしまいました。取り壊されてしまわないうちに撮っておきましょう。中央の建物が閉鎖された「京成電鉄博物館動物園駅」。「国際子ども図書館」の斜め前にあります。何度も利用したことがある人の話では、「妙に小さくて暗い駅」だったと云ってましたが、最近まで駅の存在すら知らなかった私としては何度も足を運んでいたにもかかわらず見落としていました。平成9年4月1日より休止されていたが、平成16年4月1日で完全に廃駅となりました。

  

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