佃しま住吉の祭


 徳川家康が名だ一介の浜松城主であったころに、摂津国の住吉神社へ参詣に出掛けた。ところが神崎川が大洪水で渡ることが出来ずに困っていた。そこを摂津国西成郡佃村の漁師が舟を出して無事渡してやった。さらに、この漁師たちは、大阪の陣の際にも魚を献上したり、使者を運んだりして家康につくした。

 このことを感謝して家康は江戸で天下を取ると、佃村の漁師36名を江戸へ呼び寄せ、海川における魚漁獲の許可を与えた。漁師たちは当初日本橋の魚河岸近くに住んで魚の商売をしていたが、後に、隅田川河口の天然の寄州を幕府から与えられたので、ここを自力で造成し、100間(182m)四方の島とし、ここに、移住して漁業に従事した。正保元年(1644)彼等は自分達の生国の名前を取って、この島を『佃島』と名付けた。

 佃島付近で取れる白魚は極めて美味で、毎年11月から翌年3月までの間に取れた白魚は全て幕府に献上することになった。この期間漁師達は広重の永代橋の絵にもかかれているように、夜な夜な舟を出し、漁り火をたいて白魚の漁をした。また、この島の漁師は、近辺で取れた魚介類や海苔を煮しめて醤油、味醂、砂糖などで味付けした保存食を作っていた。佃島で出来たので、これを佃煮といった。

 佃島の漁師達は、自分達の郷里の産土神(うぶすながみ)であった住吉神社を分社して、この島に住吉明神社を建立した。この神社は、佃島の守り神として佃島の漁師の間ばかりでなく、海上の航海を守る神としても、日本橋や京橋地区の廻船問屋仲間に信仰されていた。

 この神社の祭は、6月28日から29日にかけて行われた。祭りが近付くと掘割に埋められていた幟の大棹が掘り起こされて、15間(27m)もある『住吉大明神』と書いた大幟が島の各所に立てられ、佃囃子の笛の音に合わせてはためいていた。豊漁を祈るこの祭りは全て佃1丁目の住吉講の人々が取りし切り、部外者の介入は一切許されなかった。祭りの第2日目未明の末の刻(午前2時)には、4尺3寸(1.3m)の高さと、100貫(375kg)もある8角の神輿を、威勢の良い若衆連中が裸体で海中まで担ぎ込み、もみ合う様は壮観であったという。

  

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