品川




 品川宿は南北に長い海岸沿いの宿場町であり、街道筋には旅龍屋や料亭などが並んでいた。裏が海に面した料亭は窓からの眺めが非常によかった。そうした中で最も有名であったのが、『土蔵相模』という家である。

 南品川から大森にかけての海岸を鮫洲海岸といった。その名前の由来には
 ●この海岸にある海晏寺の寺伝によると、この寺は建長3年(1251)に、品川沖で漁師の網に かっかったさめの腹の中から出て来た観世音の木像を祀った所であるという寺伝からきた説。
 ●海晏寺の南に砂水の海浜があり、そこに鮫洲明神の祠が建っていた。土地のものは『昔この 地へ1丈(3m)余りのさめが上がった。当時疫病が流行していて、これは鮫の祟りではないか と恐れた漁師達が霊魚の頂骨である鮫の頭をこの祠に祀った』という説。
 などの諸説がある。どちらの説にも鮫の名前が共通して出て来て、江戸湾を泳いでいた鮫が捕らえられた海岸であることを示している。

 鮫洲海岸は純粋の漁村であって、海苔の栽培が盛んであった。江戸時代に海苔というと浅草寺の仲見世などで売っていた浅草海苔が最も有名であった。この海苔は、昔は浅草付近の隅田川で取れたものであったが、江戸の町の拡大と共に、産地が隅田川河口から江戸湾へと移転して行き、元禄頃(1688〜1704)には、品川、大森、羽田周辺が主産地となった。鮫洲海岸においても海苔の養殖が盛んに行われた。

 海苔は秋の彼岸前後に、水深の浅い海中にヒビと称する麁朶(そだ=楢の木の枝つきの小木や大枝)を立て、秋の土用以後に追々着成した海苔を取ってきて加工したものである。海苔が生成するのは、翌年の4月頃までの寒い季節に限られていた。漁師達は朝早くから起きて舟に乗り、ヒビの間を回って海苔を摘み取った。この時に使われた舟を『部賀船』と称していた。これは小さくて幅が狭い舟で、海に浮かべると『へかへか』と音がするのでこの名前があった。

 南品川宿から目黒川に沿って海中に牛の舌のような格好をした州が北へ伸びていた。南北20間(36m)あった。ここは、目黒川河口に出来た寄り州であり、誰も住んでいなかった。明暦元年(1655)に来聘した朝鮮通信使が品川宿を通った時、南品川に住んでいた漁師に対しても宿場並みの伝馬役を果たすように申し付けたところ、これを辞退したので、それ以後、彼らは宿役を外され、この寄り州に移されて専ら漁業に従事することになった。そして、ここを洲崎、またの、名を品川浦と呼んだ。ここの漁師は幕府の御善所へ魚を献上する義務を負う代りに、この地での漁猟を許された。文政11年(1828)の戸数は135であった。

 文化14年(1817)の代官所への報告書によると、ここにあった漁船は2人乗りが18艘、3人乗りが35艘、計53艘あったという。この絵にも、そうした舟が遠くに3艘ばかり描かれている。四つ手網や手繰り網(引き網の一種)を使って取れた魚には次ぎのようなものがあった。「こち、ひらめ、芝海老、ハゼ、あいなめ、いか、きす、うなぎ、いしもち、小鯛、黒鯛、ぼら、さより、カレイ、ほうぼう、あかえい、さわら、赤貝、はまぐり。

 洲崎の北端に弁天社が建っていた。社の由緒は不明であるが、神体は弁天に木の座像で、その両脇には童子像が2体立っていた。寛永3年(1626)に、北品川の東海寺の沢庵師がこれを祀り、弁天社と名付けたという伝説がある。境内に鯨塚があった。寛政10年(1798)に暴風にまぎれて江戸湾へ迷い込んで来た鯨を漁師が生け捕り、浜御殿で将軍に見せた。後に、その骨を埋めたところという。目黒川には橋が架かり洲崎と宿場町をつないでいた。

  

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