芝浦




 芝浦とは江戸城に南、新橋辺りから田町辺りまでの東側の浜をいった。遠い昔には竹柴の郷といったが、後に、竹の字を取って柴とだけ呼び、字も芝の字を当てるようになったといわれている。元々漁師が大勢住んでおり、海は雑魚場といって小魚がよく取れた。美味な魚が多く、江戸っ子はここで取れた魚を芝肴と称して好んで賞味した。さらに、後になって、ここで取れた魚は江戸の前で取れたという理由で『江戸前』と名付けて賞美されていた。ここの漁師は将軍家への御菜として、取った魚を月に4回上納するのが恒例となっていた。

 芝浦には広重が描いているように浜御殿があった。寛永の頃までのこの辺りは葦が茂っていて、代々の将軍が鷹狩をした場所であった。4代将軍であった家綱からこの土地を譲り受けた弟の綱重は、ここに下屋敷を建てて庭園を作った。その子家宣が6代将軍として江戸城に移ったので、この屋敷を浜御殿というようになった。邸内には茶屋や堂が建てられていたが、後に火災にあって焼失し、邸内は一時荒れ放題となっていた。それを11代将軍家斉の時に大修復をして復元した。

 百万坪(3.3ku)もあった邸内には、海水を引き込んだ池が造られ、その中には幾つかの島が散在し、池の回りには木が植えられ、小山も築かれていて富士芝山といわれていた。

 この絵の右側に浜御殿が示されている。海中に立てられた木組は、御留杭と称して御殿前に4本立っていた。これで水位が分り、往来する舟はこれを見て浅瀬を避けていた。

 海上を飛んでいる鳥は都鳥ともいわれた『ゆりかもめ』である。この海岸から東北には江戸湾の水平線上に横たわる房総半島が、南の方には羽田の森が、さらに海上には、白い帆をかかげた帆船が南北に行き交っているのが見え、大変景色がよかった。その上月が出たり、雪が降ったりするとその景色に一層の風情を添えていた。

 増上寺の門前から海にかけた地域を芝といった。むかし、この海辺から西北にかけての原野に芝が生えていたところから芝の名前が起り、北は汐留川口から、南は下高輪辺りまでの海辺を芝浦といった。

 増上寺の南側を西から東に流れて来た赤羽川が芝では金杉川と名前を変えて海に注いでいた。河口の近くで東海道が南北に通っていて、その往還に沿って古くから商家が並んでいた。川の南側一帯を芝金杉町と称し、金杉川に架かった橋を金杉橋といった。

 この辺りで取れる魚は江戸前と称して、江戸において最も新鮮にして美味の魚とされた。金杉の漁師は幕府から漁業権を賜った見返りとして、毎月4回鮮魚を幕府に上納する義務を負っていた。

 幟(のぼり)を立てて団扇(うちわ)太鼓を打ち鳴らし、『南妙法蓮華経』のお題目を唱えながら、金杉橋を渡って行く池上本門寺帰りの講中の一行が架かれている。

 日蓮上人がなくなったとされる池上本門寺では、命日の10月13日前後に御影供(おめいこう=御命講)と報恩式が営まれた。その時には、生前に生き写しの日蓮像にまみえることが出来るというので、江戸や近在から多くの信者が参集した。中には題目講と称する講に加わり、講名を書いた幟を先頭に押し立てて本門寺へ向かう人も多かった。そのため、特に、命日の日は朝から終夜まで、江戸より本門寺までの道は参詣人で引きも切らず、題目を唱える声と団扇太鼓の音がとどろいていたという。大きな幟には題目の『南妙法蓮華経』が、また、小さな幟には講の名前が書いてある。

 増上寺は慶長3年(1598)に、徳川家の菩提寺として芝に建てられた寺である。寺域には6人の将軍とその夫人や子供達の霊廟であった。このため将軍家の尊敬が厚く、その大伽藍の広大さと壮麗さは寛永寺と肩を並べていた。この絵の左奥に見える朱塗りの建物が大門であり、それに続いて見える屋根は山門と本堂である。境内には30にも上る別坊があって修行中の層が多くおり、日暮れ7ッ時(午後4時)になると10人、20人と組んで江戸市中へ托鉢に出掛けたという。門を出てくる修行僧の一行がこの絵に示されている。

 増上寺の大門に向かって右側に俗称芝神明が鎮座していた。正しくは飯倉神明宮といい、寛弘2年(1005)に一条天皇の勅命により創立された。元飯倉にあったためこの名がある。本殿には伊勢皇大神宮豊受大神の分身は祀ってあり、社殿には神明造りで千木のある屋根が特徴であった。建久4年(1193)に征夷大将軍として鎌倉にいた源頼朝は、宝剣一振を献納し美田も寄付したので、繁昌したというが、足利時代になって、伊勢新九郎氏茂に神領をかすめ取られてからは荒廃状態にあった。江戸時代になって徳川家康が神領を与えると同時に神殿も修復したので、神威が昔の倍に回復したという。

 門前には江戸名物の書籍、地図、錦絵、伽羅油、明伝来という養命薬、吹出物に効く薬油などを売っていた。さらに、宮芝居がかかったり、お茶を出す水茶屋なども出ていて、盛り場としての風情を持っていた。

 祭礼は9月11日から21日までの11日間続いた。他の祭に比較して長かったので『だらだら祭』とか、また、祭りの時によく秋雨が降ったので『めくされ祭』ともいわれた。祭りには境内で甘酒が振る舞われ、千木箱の縁起物が売られ、また、有名な生姜市が立った。『本朝医方伝』によると、生姜は穢(けがれ)をとるといわれ、これが神明(神のように明かな心)に通ずるとして、土生姜が売られていたというのである。また、当時生姜は色々な薬効を持つとされ、煎じ薬に生姜を入れて一般に服用されていたという。

  

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