王子








 石神井の三方池と石神井池に端を発した石神井川は東流し、王子で台地を横切っている所は渓谷となっていて、周囲は風光明媚であった。そして南岸の崖を伝わって何条もの滝が川へ落ちていたので、ここを流れる石神井川は滝の川とも呼ばれていた。(下流は音無川となった)

 
滝の川の川上から川下を展望してのものである。右端に一条の滝が落ちており、1人の男が滝に打たれている。この川岸にはこの他にも多くの滝があり、江戸庶民の滝浴みで有名な場所であった。川の中島に建てられた小屋も滝浴み「客のためのものであろう。滝浴みは、信仰上からとか、乱心、逆上性、頭痛などの病気が治るとかいって行われたが、海水浴が普及していなかった当時としては、涼を取るための滝浴みも盛んであった。

 滝壷から崖下の川岸に沿って道が回っている。途中に洞窟があり、その前に鳥居が立っている。その奥に弁財天として吉祥天女が祀られており、岩屋弁天とも松橋弁天ともいわれていた。ここには、吉祥天女が水の神の弁財天と混同して祀られていたが、七福神の中の一つの神でもあったので、福徳財宝の神として信仰されていた。

 右端の崖の上には金剛寺が建っていた。境内には多くの楓が植えられ、秋の紅葉が特に奇麗であったので、紅葉寺ともいわれた。

 王子一帯の地域は、紀州熊野に地形が似ていたので、紀州出身の8代将軍吉宗はここに非常な愛着を持ち、庶民の行楽地の開発に力を入れた。滝の川の流域には桜や楓を植えさせて、さらに、この川の右岸にあった飛鳥山にも桜を植えさせて、庶民のための桜の名所に仕立て上げた。

 この地は、山あり、谷あり、川ありで地形に富み、また参詣できる神社仏閣があり、その上、春には桜、夏には滝浴み、秋は紅葉、冬は雪景色と四季を通じて楽しめることが出来たので、庶民を中心にして江戸よりの行楽客で賑った所である。



装束稲荷
 毎年大晦日の夜、関東八ヶ国の稲荷の使いの狐が、装束榎で装束を整えて、関東総司の王子稲荷に参詣したと言う伝説に因んで、毎年大晦日の夜11時より装束稲荷→王子稲荷まで『狐の行列』が行われます。
きつねの面で装束し、提灯の灯をかざし、除夜の鐘とともに王子稲荷へと行列します。お面を買って参加者記帳所で受け付けをすれば誰でも参加できます。

PM10:40 装束稲荷で鏡割り
PM11:00 装束稲荷前集合
AM 0:15  装束稲荷を出発
AM 0:40頃 「提灯交換の儀」
AM 1:00頃 王子稲荷到着
AM 1:10頃 王子稲荷神楽殿にて「お祓い」「きつね囃子」


王子稲荷神社
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、宇気母智之神(うけもちのかみ)、和久産巣日神(わくむすびのかみ)]
 御祭神は、世に「稲荷大明神」と称え奉る衣食住の祖神で、古来産業の守護神として、広く庶民がおまつりする神さまであります。
 王子稲荷神社は、今から1千年の昔「岸稲荷」と称して、この地にまつられたお社で、社記に庚平年中、源頼義、奥州追討の砌リ、深く当社を信仰し、関東稲荷総司と崇むと伝えており、西暦1060年の平安朝中頃には相当の社格を有していたものと考えられます。
 元亨2年(1322)に近隣の地に領主豊島氏が、紀州の熊野神社を勧請し王子神社を祀った処から、地名も王子と改まり、当社も王子稲荷神社と改称されました。
 小田原北条氏は当社を深く尊崇し、朱印状を寄せており、江戸時代には、徳川将軍家の祈願所と定められて大層栄えました。
 代々の将軍の崇敬は、極めて篤く、社参は勿論、3代将軍家光公は、寛永11年に、社殿を造営し正遷宮料として金五拾両、その他諸道具一式を寄進せられ、次いで5代将軍綱吉公は元禄16年に、十代将軍家治公は天明2年に、それぞれ、修繕を寄進されましたが更に、11代将軍家斉公は文政5年(1822年)に、社殿を新規再建きれました。
 八棟造り極彩色の華麗な社殿は、江戸文化の最高潮、文化文政時代の粋を伝え、当時の稲荷信仰の隆昌か偲ばれます。然し、惜しいことに、この度の大戦中、昭和20年4月13日、空襲によって本殿など大破しました。
 その後、昭和35年に本殿の再建が行なわれましたので、現在の社殿は、拝殿幣殿は文政五年の作、本殿は昭和の作ということになります。又、昭和62年には、社殿の総塗り換えが165年ぶりに行なわれ、神楽殿も新規に建て替えられました。
 徳川幕府代々の将軍家の厚い保護と共に、大老田沼意次が立身出世したのは、屋敷に稲荷が祀ってあったからという評判によることもあって、庶民の中に稲荷信仰が大層盛んになり、中でも王子稲荷の商売繁昌と火防せ(ひぶせ)の御神徳は広く知れわたる処となりました。そして、江戸中期より二月の初午には「火防守護の凧守」が授与されるようになり、これを祀ると火難を免れ、息災繁昌するとて社頭は賑いを呈し、これに因んで、縁起の凧を商う凧市が境内で開かれるようになり現在に至り、東京名物となっています。
 奴凧が御守りになっている由縁には、江戸期の火消しの印袢纏と奴凧の姿が結びついたものとか、或いは、凧は風を切るという処から火事を防ぐ御守として採り上げられたとか、言い伝えられています。




  

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