日本橋

  





 江戸の地に徳川家康が幕府を開いて今年で400年、日本橋は、江戸の歴史と共に歩んできた。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元票は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
 平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。

 徳川家康が江戸城に入ったのは、1590年(天正18年)、天下人・豊臣秀吉の国替えの命により、三河(愛知県東部)など5ヶ国を明渡し、そのかわりに、関東全域に当たる北条氏の所領(関八州)を得た。

 当時の江戸城は、築城した太田道灌が滅ぼされてから100年が経ち、荒れ果て、城下町もさびれており、周辺は葦の原だった。

 江戸城に入城した徳川家康は、土地の埋め立て、堀や港、水道の整備といった江戸の大土木工事などや当時は入江だった日比谷の海を埋め立て、現在の地形になった。

 平川(現在の神田川、日本橋川)を江戸湾と江戸城の外堀とをつなぐ工事で延長され、そこに木橋の日本橋がかけられた。そして、1604年(慶長9年)五街道の起点となり、また、幕府の町割(都市計画)で日本橋界隈は江戸時代から商業地として発展し、今も昔も、お上りさんや買物客で賑っている。

 現在の日本銀行辺りには、『金座』が置かれ、周辺には『両替商』が軒を並べ、また、橋の北詰東側一帯には、『魚市場=関東大震災後に築地へ移転』、『神田の青物市場』と、共に江戸の台所として賑った。

 江戸府内最大の橋として江戸の発展を見守ってきた日本橋は、火事で焼失するなどで、12回も架け替えられた。現在の石橋は1911年(明治44年)に完成。明治から90年余の歴史と国の重要文化財に指定されている。

 江戸の中心日本橋から中橋に至る東海道の最初の4丁を日本橋通りといった。慶長8年(1603)の日本橋完成と同時に、この通りの両側には町屋が建てられ、後に、江戸の商業の中心となった。

 ここに建っていた黒漆喰塗り立派な店舗のほとんどが、伊勢、近江、京都など関西に本店ををおく商人のものであり、この通りにあった店を江戸店(だな)と呼んだ。取り扱っていた商品は、各店の出身地で産出したものが中心をなしていた。

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伊勢店:木綿、紙、荒物、水油、茶、醤油
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近江店:畳表、蚊帳、呉服、木綿、麻、繰糸
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京都店:呉服、小間物、文具、雛人形

 当時から現代まで残っている老舗には、塩瀬(饅頭屋)、白木屋(現、東急百貨店)、栄太楼(菓子商)、古梅園(筆墨商)、山本山(海苔商)などがある。通丁目の南から北を望んでいる。右手手前の店舗が白木屋である。近江出身の大村彦太郎が寛文2年(1662)に始めた小間物や呉服物を売る店であり、江戸時代には、伊勢出身の三井家が開いた駿河町の呉服商越後屋と肩を並べる店であった。

 その隣には、東蕎庵の文字のある暖簾と看板を持ったそば屋が建っている。そばは江戸市民の大好物であった。白木屋の前には、そばを入れた蒸龍(せいろう)を担いで行く、出前持ちが描いてある。その前に菅笠をかぶって立っているのは『真桑瓜』を売りにきた農夫である。

 この通りは、東海道の起点に当たり、江戸でも最も人通りの激しかった通りである。この絵の中心には回りに染模様の幕をたらした大小二重の傘が描かれている。この傘を担いで行く連中は一様に白木綿の単衣を着ている。その後に三味線弾きの女がつて行く。彼らは『
かぽれ』踊りの一行である。この踊りは住吉踊りともいって、一人が御幣のついた傘の長柄を割竹で叩きながら唄い、女が三味線を弾くと3〜4人の男がその周りを踊りながらぐるぐる回るというものであった。文化文政時代(1804〜1830)には、浅草寺の境内などで大道芸として盛んに出ていたという。


  



雪晴の日本橋

  

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