神田




  徳川家康は江戸に幕府を開くとともに、まず江戸城の普請、武家屋敷の建築、商人、職人達の町造りに取り掛かった。

 その中で職人達や、彼らに原材料を供給する商人達は、幕府から神田の東、日本橋商人町の北に土地を与えた。職人の間で同じ職種を持った人達は同じ町に固まって住み、その職種名を取って町名とした。職人達が住んだこの地域を通称職人町といった。

 当初の町屋は、日本橋から筋違御門へ出る手前の奥州街道道筋に沿っていて、草屋町(藁)、白銀町(銀細工)、乗物町(駕龍)、鍛冶町(鋳物)、新石町(石)、須田町(水菓子)、連雀(尺)町があった。後に、それに直交する形で紺屋町(染物)、白壁町(左官)、大工町、雉子(木地)町、塗師町(漆塗)、佐柄木町(幕府研師)などの町が広がった。幕末における職人町の大きさは当初の町の2倍に膨張したといわれている。

 当時染物職人であった藍染職人が集まって住んでいた所を紺屋町といった。この土地は幕府の御用達であった紺屋頭『土屋五郎右衛門』が拝領したもので、街道から東へ向かって紺屋3町が造られた。北側の裏手には藍染川という細流れが流れていた。彼らは主として幕府の注文によって渡された生地を染め上げ、それを納入するのが仕事であったが、幕府の注文がない場合は、江戸市民の要求によって仕事をしていた。染め上げた布は屋根の上に櫓のように組んだ干場で乾燥した。櫓から垂れ下がって、風にひらひらしている幾条もの浴衣地は風情があり、江戸の風物詩の1つに数えられていた。

 広重は祖の風物詩を主題としてこの絵を描いている。紺屋町の通りの両側に並んだ櫓の祖芝から、何条もの浴衣地が垂れ下がり風に吹かれている。浴衣地と浴衣地とが作り出した谷間から紺屋町の町並み、緑の木々に囲まれた江戸城、そして富士山が見通されている。

 徳川家康は江戸へ入ると同時に、これから、江戸の町が必要とする水を確保するため、家臣に命じて神田上水を造らせた。関口にあった洗堰で飲料用の水が取り入れられた後、余分の水は昔からあった平川へ入り、日本橋川を経て隅田川の河口へ流れ込んでいた。

 元和元年(1615)になって幕府は、中小河川の洪水から江戸市街を守る方針を立て、平川についても氾濫した折の水の放水路として、本郷台を東西に開削して堀割を造り、水が浅草の南で隅田川に流れるようにした。この掘割の南岸は北岸よりも高く築いてあり、溢れた水が城側には流れ込まぬように配慮がなされていたという。この工事を担当したのが仙台の伊達家であったため、当初は仙台堀と呼ばれていたが後に神田川と名が変わった。初めは川も浅かったが、万治年間(1658〜1661)になって、隅田川から船が入れるようにと掘削が行われた。さらに、舟がが運んできた荷物を陸揚げ出来るようにと昌平橋の北詰めには昌平河岸が設けられた。

 この堀割の深く切れこんだ谷間を流れる渓流の美は有名であって、緑が一際目にしみる風景に絵心を誘われて、描いたものと思われる。

 手前に見える昌平橋は、筋違八ッ小路の西北の角から神田川を渡って本郷方面へ出るところに架かった橋である。元一国橋とか相生橋とか呼ばれていたが、本郷台地の一角、湯島に聖堂が元禄3年(1690)に建てられてから、そこに祀られている孔子の生まれ故郷、『昌平郷』にちなんで昌平橋と名付けられた。

 聖堂は、森の中に隠れて見えないが、聖堂を訪問する人々は神田川沿いの坂を登って行くが、聖堂は徳川家康の第9子、尾張藩主徳川義直が上野忍岡の林羅山の屋敷内に建てた孔子廟を、5代将軍綱吉がこの湯島へ移転したものである。新しく建てられた大成殿には孔子の像が中心にその弟子、『顔、曽、思、孟』の4人の像が安置された。聖堂の西側には昌平黌が建てられ、林家が学頭に任ぜられて、幕臣や諸藩士に儒学を教えた。ここはいわば幕府の学問所であった。

 井の頭池を水源とする神田上水は、関口に設けられた洗堰で堰止められ、飲料用に使用されなかった余分の水は本郷台地を東西に堀割った水路を東進して隅田川に注いでいた。これが神田川である。神田川が分断した北の台地を湯島台、南の台地を駿河台ともいった。他方、水道に使用される水は、神田川の北側にあった小石川の水戸藩邸内の台地の中腹を伝って流れ、神田川に架けられた懸樋を通って、南の江戸城と神田方面へ流れていた。神田川に架かっていたこの懸樋は水道が通っていたことから水道橋と名付けられた。しかし、この絵の左方神田川のさらに下流にあって描かれていない。

 湯島台から神田川越しに駿河台、さらに、その先の江戸城を望んで描いたものである。駿河台は元神田山とか神田台とかいっていた。徳川家康は入府後に、この台地を切り崩した土を使って、日本橋南東の海を埋め立てた。この台地は家康が駿河の府中で死んだ後、彼に仕えていた家臣達に与えられて武家屋敷となった。彼らは故郷の霊峰富士山を望見出来るこの台地が大変気に入り、駿河台と称するようになった。

 神田川に架かっている橋は、八ッ小路に通ずる筋違橋である。ここから、奥州街道、日光街道、水戸佐倉街道など、江戸から北ヘ向かう道に通じていたので橋の人通りが多かった。

 大きく描かれている鯉幟は、端午の節句の日の風景であることを示している。武家では家の中に兜を飾り、戸外には鐘馗の絵幟や吹き流しを立てた。これに対し、町人達は家の中では兜に対して武舎人形を飾り、戸外では幟、吹流しからヒントを得た鯉幟吹貫などを立てた。天覚雄御江戸の空を悠々と泳ぐ鯉幟は、いつも威張っている武士を見下ろし取り、これを見て江戸っ子は多いに溜飲を下げたいわれる。

 鯉は滝登りができるほど出世魚であり、これが天に登るとなれば目出度い限りで、男の子供を持つ家は出世を願って競って鯉幟を立てたのである。


  

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送